村社 八坂神社(豊岡市日高町水上)
Contents
概 要
社号 八坂神社
読み:古 ヤサカ 現 やさか
所在地 兵庫県豊岡市日高町水上37-2
旧地名 但馬国気多郡高田郷
御祭神
主祭神 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)
配祀神 奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)
例祭日 10月15日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 年月不詳
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
日高小学校区(日高地区)の神社で最後になってしまった。県道1号線日高東中学校の南、水上区公民館の道を登ると大きな社号標がある。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月不詳牛頭天王と称し寿永年間(1182~84)高田次郎当社を信仰す。寛文年間(1661~72)領主小出縫殿は国役前野仁左衛門を名代として幣物を捧げしめたり。
寛政7年(1795)本殿を再建し、文化6年(1809)村の火災によりて古記録を焼失す。
安政5年(1858)領主長男小出辰太郎額一面を奉納し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。同37年(1904)本殿を上棟し大正7年(1918)同殿の向拝を新築す。同14年(1925)本殿を造営す。
-「兵庫県神社庁」-
「高田次郎当社を信仰す」とある。該当する高田次郎貞長は祢布城主だ。
境内・社叢
社叢は木々の中に包まれているので、露出が不足しブレ気味ですが。。。
社号標 鳥居
手水舎 境内(露出不足でブレています)
拝殿
拝殿扁額
境内社 稲荷社 神庫かな?
地名・地誌
水上(みのかみ)
水上は「みのかみ」と読む。出石町にも水上があるが「むながえ」と読む。太古、豊岡盆地(円山川流域の国府平野以北の流域・出石川下流)は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江湖で、上古も沼地であった名残であろう。
豊岡市塩津や大磯町という地名もその名残なのかも知れません。
高田郷
『国司文書別記 第一巻・気多郡郷名記抄』
高田郷は高機(タカハタ)郷なり。大初瀬幼武天皇(雄略)の御世十六年(472)夏六月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸(??)の地なり。
矢集村・久斗・禰布・射楯・威田
倭名類聚抄(倭名抄)に、
訓:多加多
23年紀、気多郡高田郷において但馬の国治を遷す。(但馬国府)
弘安太田文に、高田郷田67町。地頭・高田忠貞。国分寺領34町。
但馬考に、今の高田郷
夏栗・久斗・禰(祢)布・石立(射楯)・国分寺・水上の6邑。
「高田次郎当社を信仰す」とある。該当する高田次郎貞長は祢布城主だ。
祢布城 高田次郎貞長 南北朝期
国分寺城 大坪又四郎 室町時代(延徳3年:(1491-天正8年:1580)秀吉但馬攻めで消滅。
国分寺城があった天神山(今の国道312号国分寺トンネル)の北側。
【沿革】
1889年(明治22)4月1日、気多郡日置郷と高田郷・高生郷がひとつになり、気多郡日高村発足。
1896年(明治29)4月1日、気多郡7村、美含郡8村が城崎郡に編入。両郡は消滅。
1925年(大正14)11月1日、城崎郡日高村が町制施行し日高町が発足。
1955年(昭和30)3月25日、日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、日高町が発足。
1958年(昭和33)1月1日 – 日高町上佐野地区が分町し豊岡市に編入。
1976年(昭和51)9月1日 – 日高町西芝字大向野の一部が豊岡市と境界変更。
2005年(平成17)4月1日
城崎町、日高町、竹野町が豊岡市、出石郡出石町、但東町と合併し豊岡市が発足、郡より離脱。
地 図
交通アクセス・周辺情報
水上陣屋跡
小出氏嫡男の吉政は、文禄二年(1593)に播磨国龍野二万石、ついで文禄四年には但馬国出石有子山城主となり六万石の大名となった。
慶長六年(1600)、関が原の戦が起こったとき、秀頼補佐という立場から大坂城にいたらしく、否応なく西軍方となった。当時、秀政の嫡男で但馬国出石城主の吉政は、その所領の立地もあって、細川藤孝が守る丹後国田辺城攻撃に参加するなど西軍として行動した。対して二男の秀家が東軍に属して活躍、本来ならば戦後に所領没収もやむをえないところであったが、出石六万石の所領安堵を受けたのである。ところが慶長八年、皮肉なことに小出秀家は父に先立って病没、その翌年には秀政も死去したため、吉政は父の遺領である岸和田に移った。残された出石は吉政の嫡男小出吉英が領することになった。
但馬国内に旗本として4家の分家を興した。気多郡水上・山本(現・兵庫県豊岡市日高町水上及び日高町山本)の水上・山本小出氏、出石郡倉見(現・兵庫県豊岡市倉見)の倉見小出氏、養父郡大藪(現・兵庫県養父市大藪)の大藪小出氏、養父郡土田(現・兵庫県朝来市和田山町土田)の土田小出氏である。
寛延2年(1749年)より水上小出家の陣屋になった。 水上小出家は寛文6年(1666年)小出英勝が気多郡内に一千石を分知され旗本となったことに始まる。
陣屋は当初山本村に置かれていたが、寛延2年(1749年)より水上村の三木家が代官を務め、三木家宅が代官所となった。
水上陣屋は日高東中学校の南側にある水上公民館の所に築かれていた。 南と東側に石垣が残り、南東隅にはスロープが付いてその上に水上代官所跡の石碑が建っている。ここの入口には昭和の終わり頃まで陣屋門が残っていたが崩壊した。
参考:播磨屋さん「武家列伝」より
羽根山古墳・水上遺跡
日高東中学校建設中に裏山から石棺が見つかった。
日高東中学校の運動場横。古墳時代前期の集落跡。土師器とよばれる土器のほか、木で作った食器類、高床式倉庫等の建築材が多量に見つかっている。(縄文後期~平安)日本最古の高床倉庫跡。
羽根山古墳 日高町水上(日高東中学校裏山古墳群) 箱式二重石棺/古墳時代中期(5世紀)
熟年女性と熟年-老年男性が一緒に葬られていた。
荒神神社(売布神社古社地)と水上遺跡は同じ天神山の南北に隣接し、羽根山古墳 箱式二重石棺がみつかった。私もその土器破片を所持している。西国四十四カ所巡りの地蔵がルートに配置してある。